Outside of Frame (Japanese & English essay)

2022/2/10

アウトサイド・ザ・フレーム
写真は芸術ではない。どんなものでも芸術である。なにも芸術ではない。

芸術とはなにかについての考えは現代という時代において劇的に変化してきた。かつて保守的な視点からは、カメラを使用するのだから写真家の腕前など重要ではないという認識でもって、芸術としての写真という発想に反論がなされた。今日の私たちは、コンセプチュアル・アートが主流となったより包括的な世界に生きており、ここではなにもかもが、たとえいかなる者によって作られたとしても、芸術と見なされ得る。ジェフ・クーンズのような今日活躍中の名立たる芸術家の多くは、作品の制作などまったく行わず、代わりに自身の頭をよぎった閃きを形にするために、技術者を雇うのである。ここ最近では、暗号文化とNFT(非代替性トークン)アート市場の出現により、純粋に象徴的で、抽象的で、触れることのできないものとして、文化の生産という概念が再検討(リコンセプチュアライズ)されてきている。
だが、脱構築芸術と慣習的に見なされてきたようなものへと向かう現代の潮流にもかかわらず、芸術はいまだ崇められ、たとえかつてよりはるかに脱中心化され、流動化したものとはいえ、規範と制度によって支配されているのである。このような哲学的・美学的論理の奇妙なねじれにより、今では、創造と制作技能が芸術の生産を決定づける特徴ではもはやなくなっていることが示されている。芸術の社会的価値の決定要因としての才能というものからのみ、個々の芸術家が誕生するのではなく、また富裕な鑑賞者が輩出されるのでもないのだ。作品も芸術家も、狡猾な匿名のツイッター・ユーザーによってと同じく、名の知れた批評家によっても、安易に祭り上げられ、あるいは貶められる宿命にあると言えるだろう。芸術はもはや枠組みの内(インサイド・ザ・フレーム)にも、それ自体のためにも、存在していないのである。
今回の展示は、私が2017年から2019年の間に、シンガポールのラサール芸術大学の修士課程で取り組んだ、数多くの作品に関連するものである。それらによって、芸術の世界、そしてより広範な文化の領域でのただならぬ激動と転換の時節に、私が芸術としての肖像写真における共同制作の重要性を認識し、自らの考えをより洗練させるに至るまでの概要が示されている。
私は2017年の半ばに、芸術としてのヌード作品の制作について自身の理解を深めるために、美術学の修士課程に入学し、同業者や、ケネス・クラークとロラン・バルトによる古典的な文献から目を開かれてきた。目指したのは、メディアに取り巻かれた現代社会において私たちが順応させられてきたような作為的写真の向こう側に存在する、本質的に親密な人々のイメージを、より巧みに抽出し、捉えられるようになることだった。
しかしながら、その年の10月に、世界も私の研究の方向性も、世間での#metoo運動への突然の強烈な関心により、永久に変化することとなった。一夜にして、美術館から半世紀以上にわたり堂々と展示された有名作品が撤去され、女性のヌードを描いた肖像は、女性のオブジェ化と抑圧の文化的指標として、再審の主題となり、世界中で激烈な論争の的となった。
すでに修士課程での研究に取り組んでいた私は、即座に自身が、権力、家父長制、オブジェ化、そして男性の視線に関する批判的論争の中心にいることを悟った。芸術の世界の内部でのこういった関心は、世間での、男女間の社会的に構築された抑圧的権力関係の認識に由来している。そのような社会的不平等は、広範な文化の一領域たる芸術においても、女性の身体のオブジェ化を通じて抑圧的構造を正統化する男性芸術家により、再生産され、強化されているのである。この女性のオブジェ化の過程は、女性のヌードが凄まじく性的なものとしてオブジェ化されると同時に、人間の親密さの疑似的な代替品ともなった現代のソーシャル・メディアにまみれた世界において、拡張されている。私たちは「いいね!」や上辺をつくろったコメントによるちょっとしたやりとりとの見返りに、匿名の視聴者たちの束の間の性的満足のために表示される、デジタル処理された肉体のとめどない奔流に、絶えずさらされているのである。哲学者のジャン・ボードリヤールが示唆するように、それは根底においては虚無的で疎外的な、ハイパーリアルな交換なのである。この肉体を離れた抽象的な画像の集積のなかで、アイデンティティーはかき消され、親密さは破壊されるのだ。
批判的見解と忌まわしい男性の視線への非難に満ち満ちた、この時期における世間での再審の苛烈さから、教授陣や学生仲間たちによるフィードバックも色濃い影響を受けていた。多くの者の目からすると、私のやっていた仕事から感じ取れるのは、家父長制と抑圧と支配の可能性のみだったのだ。だが、長年のプロフェッショナルとしての実践において、そういったものが私の作品に内包された属性であるようには思われなかった。それどころか、経験が私に教えてきたところでは、互いに信頼し、与え合う関係を築いていくことが、写真家としての成功のために決定的に重要なのである。
自分が直面した現代の問題について理解を深めるために、私は批判の争点、マルクス主義、イメージ構築の理論について丹念に掘り下げていった。その際、同業者や学生仲間と議論するのみならず、異性愛者、ゲイ、クィアのそれぞれを受け手として想定した各作品のなかから選んだ、女性が他の女性を、女性が男性を、男性が男性を撮影したヌード画像について綿密に検討し、考察を行った。関連する文献の精読とともに、こういった学びにより、イメージそのものは、受け手が見るものを解釈するのに、せいぜい間接的にしか影響しないことが明らかになってきた。往々にして、人々の解釈は良かれ悪しかれイメージ生産の状況についての認識に左右されていたのだ。二十一世紀初頭においての芸術の広範なコンセプト化により、芸術の価値は枠組みの内(インサイド・ザ・フレーム)に存在し、優れた芸術作品はそれ自体によって独立して評価されるべきだとするイマニュエル・カントの有名な観念論的裁定は今や影を潜めているのである。
プロの写真家としての私の経験において、イメージが撮られてから受け手に届くまでに、それはしばしば様々な目的で、あまたの無関係の者たちにより、加工、編集されてきた。受け手が最終的に目にするものは、往々にしてそれが当初そうであったのとはかけ離れたなにかである。これまでの歳月を振り返ってみて、写真制作を通してのやりとりにおける紛れもない親密さが、受け手には見えないということが分かってきたのだった。作品を他者と共有するのも常に喜ばしいことではあるが、真に喜ばしいのは制作の日々における紆余曲折である。関係の進展に、笑いに、失敗に、涙に、オフショット――まさに外の世界からは決して見えないものだ。だが、この舞台裏の背景は、私たちがたいてい、写真とはこうであると理解するものではないし、またおそらくは、ほとんどの人々が写真とはこうであってほしいと望むものでもない。見られるもの、そして結果的にもっとも批判を受けやすいものは、想像された文脈から切り取られた二次元のイメージであり、信じがたいほど無限にある出来事のなかから抜き取られ、時間のなかに巧妙に配置された断片である。
私の問題が存在していたのはここにおいてであり、そしてここにおいて私の直面したいらだちへの最良の解決策と思しきものが出現したのだ。すなわち写真制作の過程を写真それ自体として解体(ディコンストラクト)し、提示することである。それにより私が望んだのは、写真生産の過程に密着した私の視点と、産み出された作品から他の人々が受け取る、必然的に限られた視点との距離を縮めることであった。こういった問題に取り組むにあたって課題となったのは、「その生産という文脈において、ヌードとはなにか?」という問いに批判的に向き合うことであった。私の研究の目的は、共同制作における親密さの構築という生産の文脈それ自体を記録することにより、写真家と共同制作者の親密な関係を示すこととなった。
この芸術作品としての制作過程の再検討には、それが関係の力学にどのような影響を与えるかを知るために、撮影場所と時間についての実験が付け加わることとなった。それはまた普段着を身にまとった状態を通してヌードについて改めて想像することでもあった。そうすることにより、産み出されたイメージはもはや気取った仰々しいヴェールで覆われてはおらず、凡庸ながらも共感し得る精彩を得たのだった。残ったものは、わざとらしい見せかけを取り払った(ディヌード)、生身の人間の親密な肖像であった。
私たちはまた、例えば友人や家族を、私生活での興味関心や、人生における平凡な喜びや悲しみを投影するといったことにより、構成の効果についても実験を行った。二重露出とコラージュにより、親密さが増すにつれて、多層化した観点から私たちの作品と関係について見ることが可能となったのだ。私たちはともにイメージを再検討し、この実験について、そしてこの過程の一部として録音した会話について熟考した。こういったことすべてにより、ソーシャル・メディアの世界のせわしない、即席の写真に対置されるような、ゆるやかで親密な写真が産み出されたのだった。私たちの創造したメタ時間と空間により、私たち二人ともが、プロデューサーとして、被写体として、そして見る者として参画する道が拓かれた。私たちが写真に収めたのは出来事それ自体ではなく、出来事についての考察であり、時間の流れであり、そして関係の決定的な変遷であった。この作品が、見る者が時間のなかで私たちの創造的で生気に満ちた空間に参入すること、そしてまた彼ら自身の経験と視点について熟考することの後押しになればと願う。
最後に、二年の間に互いの関係を新たな観点から見直した後に、私たちはヌードについて再実験することとした。その目的は時空間のなかで、そしてそれをまたがって、芸術家と被写体の共同制作的なイメージを――ポーズをとらず、パフォーマンスもオブジェ化もなしに、偽りのないヌードを――産み出すことであった。出来上がったイメージを見ると、私の共同制作者が自身の記憶を空間上に投影し、人生の些事や陰影を写し出しているのが見て取れるだろう。プロジェクターを手にすることによって、彼女は隠喩的に自らの語りを統御しているのである。
研究を終えた後、当然ながら私はプロフェッショナルとしての実践に戻っている。だが、研究の経験により、私は作品への取り組みにおいて消えることのない影響を受け、他者の視点に対して、そしてそれがいかに写真制作の過程に貢献し得るかについて、より研ぎ澄まされることとなった。この成果が、他の者にとっても写真を異なった視点から、枠組みの外(アウトサイド・ザ・フレーム)から見る一助となることを願っている。

2022年2月
アンディ・チャオ
(日吉信貴訳)

Photography is not art. Anything is art. Nothing is art.

Understandings of what art is have changed radically in the modern era. Early conservative views argued against photography as art due to the perception that the executive skills of the photographer are diminished by the use of a camera. Today we live in a more inclusive world dominated by conceptual art in which anything, made by anyone, can be considered art. Many of the most famous artists working today, such as Jeff Koons, do not make their art at all, instead employing technicians to execute the ideas they develop. Most recently, the advent of crypto culture and the NFT token art market has reconceptualized cultural production as purely symbolic, abstract and intangible.
Yet, regardless of contemporary trends towards the deconstruction art as it has traditionally been conceived, art is still consecrated and governed by rules and institutions, albeit ones that are far more decentralized and fluid. These peculiar twists of philosophico-aesthetic logic now mean that invention and executive skill are no longer the defining feature in the production of art. Talent, as a determinant of the social value of art, is not the exclusive provenance of the individual artist as much as is it of the well-situated viewer. The fortunes of art works and artists can as easily be elevated or denigrated by the established critic as it can by the wiles of the anonymous Twitter user. Art no longer exists inside the frame nor for its own sake.
The current exhibition and publication concern a body of work I completed for my Master of Fine Arts at Lasalle College in Singapore, between 2017 and 2019. They present an overview of my coming to a more refined and collaborative understanding of fine-art photographic portraiture, during a period of significant upheaval and change in the art world and in wider culture.
I enrolled in a Master of Fine Arts in mid-2017 with the aim of broadening my understanding of the execution of the fine-art nude, having been inspired by colleagues and the classic texts of Kenneth Clark and Roland Barthes. My intention was to be better able to distill and capture essentially intimate images of people beyond the photographic performance that modern media-saturated society has attuned us to.
However, in October of that year, the world and the direction of my studies were to be forever changed by sudden and intense public interest in the #metoo movement. Overnight, museums were taking down celebrated works they had prominently displayed for over half a century and feminine nude portraiture, as a cultural index of the objectification and oppression of women, became the subject of scrutiny and heated debate around the world.
Having already embarked on my course of studies, I quickly found myself at the centre of a critical debate concerning power, patriarchy, objectification and the male gaze. These concerns within the art world stem from perceptions of the institutionalization of socially constructed oppressive power relations between men and women in society. Such social disparities are reproduced and reinforced in art, as an aspect of broader culture, by male artists who legitimate oppressive structures via the objectification of the female form. This process of the objectification of women is amplified in the modern, social-media-saturated world, where the female nude has simultaneously become an act of hyper-eroticization, objectification and simulated substitution for human intimacy. We are constantly bombarded with an endless torrent of digitally filtered bodies, put on display for the fleeting gratification of the anonymous viewer, in return for tokenistic exchanges of ‘likes’ and disingenuous commentary. As the philosopher, Jean Baudrillard suggests, it is a hyperreal exchange that is at its core both nihilistic and alienating. In this mass of disembodied, abstracted imagery, identity is erased and intimacy is destroyed.
The intense glare of public scrutiny during this time, informed by critical theory and the odious aspersion of the male gaze, dominated the feedback from my professors and peers. In the eyes of many, the possibility of patriarchy, oppression and domination were all that could emanate from the work I was doing. Yet, in my many years of professional practice these had not seemed to be routine aspects of my work. To the contrary, experience has taught me that central to a successful career is the development of mutually trusting and beneficially relationships.
In order to better understand the contemporary issues that confronted me, I delved into the critical gaze, Marxism and theories of image construction. This included discussion with my colleagues and peers, as well close examination of and reflection on nude images taken by women of other women, women of men, and men of men, with a selection of works intended for straight, gay and queer audiences. These interactions, in conjunction with the examination of relevant texts, started to clarify to me that the image proper was at best indirectly determinant in the interpretation of what was being seen by the viewer. More often than not, people’s interpretation was being driven by perceptions, rightly or wrongly, about the context of image production. In the early part of the 21st century, the broader conceptualization of art now dominates Immanuel Kant’s famous idealist decree that artistic merit lies inside the frame, and that good works of art should be evaluated in-and-of themselves.
In my experience as a professional photographer, from the time an image is taken to the time it reaches its audience, it has often been edified and edited by a number of unconnected people with quite divergent aims. What the viewer finally sees is often quite removed from what it initially was. As I looked back over my years of work, it became clear to me that the real intimacy of my working relations could not be seen by the audience. While it is always rewarding to share one’s work with others, it is the daily vicissitudes of working life that are the real reward: the relationships developed, the laughs, mistakes, tears and off-shots–those very things that are never seen by the outside world. Yet, this backstage setting is not what we typically understand, nor probably what most people want, photography to be. What is seen, and consequently what is most open to critique is a two-dimensional slice of a presumed context: a highly curated fraction in time, drawn from an inconceivable infinity of events.
Herein lay my problem and also presented what seemed to be the best solution to the frustrations I faced: To deconstruct and present the process of photography as photography itself. In doing so, I hoped to narrow the distance between my closed-off perception of the process of photographic production and other people’s necessarily constrained perception of the resulting work. To address these issues, the task became to critically confront the question, ‘What is the nude in the context of its own production?’ The aim of my studies became to realise the intimate relationship between the photographer and collaborator by turning the context of production–the development of collaborative intimacy–into a documentation of itself.
This reexamination of process as artistic output included experimenting with location and time to see how this affects the dynamics of relationships. It also meant reimagining the nude through the wearing of everyday clothes. This lent the resulting images the honesty of a mundane, yet ultimately relatable life, no longer shrouded in a distracting veil of exhibitionism. What remained was an intimate portrait of a real person denuded of performative camouflage.
We also experimented with compositional effects such as projections of friends, family and private interests and other prosaic joys and sorrows of life. Double-exposure and collage allowed us to see our work and relationship through layered perspectives as it evolved. We re-examined the images together and reflected on our experiments and the conversations that we had recorded as part of this process. This all gave rise to a slow, more intimate photography that countenanced the fast, instant world of social media. The meta-time and space we created opened a way for both of us to participate as producers, subjects and viewers. What we photographed were not events themselves, but reflections on events, flowing time and critical relationship transitions. Hopefully this work encourages viewers to enter our creative and lived space in time, and to also reflect upon their own experiences and perceptions.
Finally, having put our relationship into new perspective over the course of two years, we decided to re-experiment with the nude. The aim was to produce images of a cooperative artist-subject relationship in-and-across time and space: an honest nude without pose, performance or objectification. Looking at our final images, my collaborator can be seen projecting her memories and illuminating space with the detail and nuance of her life. By holding the projector in her own hands, she is metaphorically in control of telling her own story.
In the time since I completed my studies, I have of course returned to my professional practice. Yet my study experience has had a lasting impact on my approach to work that has left me more open to the perceptions of others and how they might contribute to the photographic process. Hopefully this will also allow others to see photography in a different light, outside the frame.

N.D Chow, February 2022